汎宗派的でない無宗教の国立戦没者追悼施設は、日本の追悼施設ではな

国立戦没者追悼施設の建設のための議員連盟が、自民、公明、民主の3党で立ち上げられると各紙が伝えている。山崎拓自民党副総裁の呼びかけであるから、小泉首相も了解済みなのであろう。

無宗教の施設であると、朝日新聞読売新聞が報道している。毎日新聞は、「議連は「同床異夢」」と書き、無宗教という言葉を使用していない。Sankei Webは、10月26日0時30分現在報道していない。

無宗教の追悼施設とは、それが韓国、中国の施設であることを意味する。追悼とは宗教行為であり、追悼施設が汎宗派的でなければ、日本の追悼施設ではない。

追悼は、正に宗教行為である

政府は、民主党野田佳彦衆院議員に対する答弁書で、首相の靖国神社への公式参拝について、「専ら戦没者の追悼という宗教とは関係のない目的で行い、神道儀式によらなければ、憲法の禁じた国の宗教的活動に当たらない」と述べているそうである。(2005年10月25日14時1分 読売新聞)

憲法が禁じている政治と宗教のかかわりあいは、政治と宗派とのかかわりあいの意味である。宗教行為でない追悼は、軍隊でない自衛隊である。政府の答弁書のような詭弁をいってはならない。

宗教施設である汎宗派的国立追悼施設で、それぞれの信ずる宗派(浄土真宗真言宗日蓮宗神道キリスト教カトリックキリスト教ルーテル派、イスラムスンニ派イスラムシーア派等々)の形式で礼拝する。それが、追悼である。宗教行為でない”追悼”は、追悼にならない。

小泉首相の礼拝作法

平成17年10月19日午後3時45分頃、民主党前原誠司代表が小泉純一郎総理との国会党首討論で、17日の小泉首相靖国参拝での礼拝は墓参りの礼拝で失礼だと党首討論の最後に発言していた。小泉首相は、反論をしようとスピーチ台の前に立ったが、時間切れで発言できなかった。

まず第1に、やはり小泉首相の礼拝は仏式と思ったのは、私だけでなかったということ。

第2に、前原代表は失礼だと右派らしい発言をしていたが、前原民主党代表は間違っている。礼拝者が仏教徒であったとき、神道キリスト教の葬儀で、合掌礼拝(らいはい)するのは当然である。キリスト教徒になったのではないから、十字を切るのは間違っている。儀式が主宰されている宗派の礼拝作法が参列された者に強制されるのではない。参列者は、儀礼の場を壊す行動をとってはならない。大きい声は出すべきではなく、大きい身体的行動をとるべきではない。そのうえで、参列者の信仰に基づく礼拝作法を目立たないようにするのが良い。前原誠司氏は宗教が分かっていない。儀礼が分かっていない。(それと両手をただ合わせる合掌は、どの宗派でも礼拝姿勢として不自然ではない。)

本項は、「小泉首相の靖国参拝を支持する……早急に汎宗派的国立追悼施設を」(blog安芸ねっとwebry2005/10/19 07:17)の末尾に追記したものに同じ。

靖国問題に、なぜ匿名で発言するのか(僧侶であるということ)

本日の総選挙党首討論でも靖国問題が争点になっていたが、靖国問題について、私は、6月19日にこのBlogに書込をした。いま、東京の真宗僧侶グループであるPOSTEIOS研究会のホームページを閲覧していたところ、たまたま同じ頃(6月16日)に、「首相の靖国参拝問題に速やかな対応を」という論説があった。群生海氏が書いたものである。「群生海」氏が、特定の一人なのか複数人のグループ名なのか知らない。私が、POSTEIOS研究会にうさんくささを感じるのは、重要なテーマについての意見が、ハンドルネームになっているからである。

浄土真宗の僧侶の意見が1つであるわけではない。POSTEIOS研究会の構成メンバーを見ると、宗門ではそれなりの有力者である。私は、日本の伝統教団で一番勢力が大きい浄土真宗本願寺派西本願寺)のそれも首都圏での有力僧侶の集団であるPOSTEIOS研究会が、重要テーマについて、匿名の論説を載せることに憤りを覚える。僧侶は、そもそも社会の世俗倫理から解放(追放)された存在ではないか。実名で意見を述べるべきである。

住職が、実名で自己の本心の意見を述べることの恐怖はいかばかりかは、私自身が自分が書いた文章を安芸教区教務所(広島別院)から、「差別文書である」と摘発され、それに対する反論からこの「安芸ねっと」というホームページを立ち上げた経緯から、良く知っている。社会から何を言われるか。住職を務める寺の門徒からどう思われるか。宗門の僧侶たちからどう言われるか。現在就いている宗門内外の役職を辞すべきか。これからの活動に支障があるのではないか。経済的にも自坊の護持に差し支えるのではないか。実名での発言では、このような恐怖と戦いながら発言するのである。

社会的にも重要な「靖国問題」で、僧侶は匿名で意見を述べるべきではない。POSTEIOS研究会は、浄土真宗僧侶の「社会的責任」にたいする自覚があるならば、実名で意見を公表してもらいたい。

インターネットの匿名習慣について

インターネットでは、一見匿名が原則のように見えますが、本当にそうでしょうか。

インターネットでの匿名についてのこれまでの議論をみても論じられていないようです。私も気が付きませんでした。

インターネットの原型であるARPANETでは、非常に限定されたメンバーでした。そこでニックネーム(ハンドルネーム)を名乗ることは、実質的には本名を名乗ることだったのではないでしょうか。そこにいろいろな人々が参入することによって、ニックネーム(ハンドルネーム)が匿名性を持つようになったのではないでしょうか。現在でも、特定テーマのBBS(掲示板)では、ニックネーム(ハンドルネーム)を使用しても中心的メンバー間では、誰であるか知っているのが普通です。そのようなBBSで発言するのは、よほどタフな人物でなければできません。私は何度も見ましたが、都合の悪い発言は削除されることが普通です。私は、そのようなBBSに、実名で書き込んだことがあります。当時、私は本願寺監正局の審事をしていましたが、私の書いた研修会の案内状が差別文書であるとして、浄土真宗本願寺派安芸教区広島別院から指摘されていました。あるBBSに実名で、私のホームページも示して書き込みました。早速、ニックネーム(ハンドルネーム)で私を引っ掛けるような書込がありました。差別問題に関連する質問については、実名でなければ議論しないと応じました。

発言は、実名でなければその内容に責任をとる主体がない。

現在、郵政民営化について私はいろいろ発言しています。地元で何人かの特定郵便局長を存じ上げています。寺の門徒(檀家のこと)にも郵便関係者がおられます。そこで、本名で発言するのと、匿名で発言するのとでは、全く私の受けるプレッシャーは異なります。本名で発言されている方は、自己の交友関係や地位を失うリスクを負いながら発言しなければならず、言いたくても言えない部分が随分あるのではないでしょうか。

インターネットでのニックネーム(ハンドルネーム)は、もともと本人を特定できたものでした。昨日今日の責任のない新参者が、本当に匿名である「ニックネーム(ハンドルネーム)」で発言するときは、偉そうな態度をとるべきではありません。所詮、便所の落書きと自覚するべきです。(自覚する能力も躾もない人々に言っても仕方ないことですが……)

インターネットの「匿名」性について

基幹運動の関係者は何を考えているのか(運動の腐敗)

中外日報(平成17年(2005年)7月28日14面)が正しいなら、ある宗門関係者がのたまわったそうである。「基幹運動(同朋運動)の方針に異論があるのならば公の場で名前を名乗って堂々と持論を開陳するべきであり、闇夜に後ろから切りつけるような行為は許されない」と。

池谷亮真広島別院輪番(安芸教区基幹運動推進委員会長)あて書簡(平成15年(2003年)6月20日)で、「差別」案内状事件について部落解放同盟、全国自由同和会、全国部落解放運動連合会(注1)の3団体を招き、広島別院において公開で討論することを求めましたが、全くの黙殺です。差別文書であると告発した人物も匿名のままです。差別行為を理由とする虚偽の摘発を「仕掛ける」人間は匿名でいるのを許して、上記宗門関係者(基幹運動関係者?)の発言は、誰もまともな発言とは考えないのではないでしょうか。

宗門の関係者は、マスコミ向けにきれい事発言をしてはなりません。その体質がある限り、宗門の未来はありません。


(注1)全国部落解放運動連合会(全解連)は、平成16年(2004年)4月3日、全国地域人権運動総連合(全国人権連)に改称。