宗教とは

宗教の定義を云々することはむなしい。岸本英夫が宗教の定義を採集してまとめているが、退屈である。ご本人も退屈であったと思う。論文の約束事として調べ羅列しただけである。

私は最近次のように実感している。宗教とは、人間を生きさせているものである。死も生きることの帰結である。生の一態様といえる。生きているということは、宗教のなかにいるということだ。人が今ここにいる空間が、即すでに宗教空間である。

宗派の教義(教義は、キリスト教等の一神教も含め、すべて宗派の教義としてある)は、時間と空間との相関関係で機能している。教義だけ切り離して論じても意味はない。宗教の伝播と変容もこの文脈の問題である。変容は、抽象的単語が同じでも(翻訳は抽象的に同じとはいえなくなるが)、言葉以外の文化によって意味が違ってくる。

私は、マルクス主義無宗教であり、マルクスは「宗教はアヘン」というが、マルクス主義の幻想が雲散してみるとマルクス主義は宗教そのものであったとの意見に賛成する。マルクス主義は、キリスト教そのものであった。マルクス主義者は、牧師(神父)だった。

人に宗教が必要かの議論はナンセンスである。生きているということは、宗教を受け入れているということである。宗教が個人的か集団的かの問題も、人は生きているためには、1人のみの存在が不可能という人間存在のあり様と関係する。浄土真宗は、集団のなかで最も個人主義的に生きる教えである。

最も個人主義的な生き方を追求する浄土真宗が、巨大な教団を維持しているのはなぜであろうか。寺院は、1村1ケ寺(いっそんいっかじ)が経営的には一番安定する。都市の寺院は競争にさらされ厳しいものがあるが、門信徒(信者)の意識のなかに、俗社会と同様の名誉心、出世競争などの集団的要素をふんだんに入れ込んで寺院護持集団をまとめるとうまくいくようである。徹底的に品位を下げて低俗化するのが寺院経営のコツか。私は堕落と思うが。類は友を呼ぶということか。

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