著作権

私の好きな歌手の一人である”中島みゆき”らが行ったニッポン放送を降板するとの意思表明を私が批判したとき、私のBlog(複数)最初のコメントを貰いました。「やめるべきではないと言うのも、横暴じゃないかな。日本は自由契約社会なんだから。資本主義の市場の原理を大切にするということは、自由な意思にもとづく契約も重視するということでしょう。」(2005/03/24)というものです。「寄り道」というニックネームなので、書かれた方は誰だか分かりません。

彼らの降板表明は、ニッポン放送への媚だと私はコメントにコメントしました。全文は、次のとおりです。「タレントは、芸をしてなんぼです。芸で勝負すべきです。それに、高裁判決の前に表明すべきことではないと思います。実際にライブドアが経営に関与してから、やり方をみて判断すべきでしょう。やはり、ニッポン放送に媚びたのだと思います。(高裁「判決」は、決定の誤り)」

”寄り道”氏は、法律論の装いをされていますが、タレント諸氏の発言は法律論ではないと思います。おそらく、ニッポン放送の社員から堀江貴文の経営手法の悪口を聞き、歌等がインターネットで流されると著作権が意味を持たなくなる等のレクチャーを受けたものと思われます。

(法律論では、”寄り道”氏の立論は無理があるのではないでしょうか。契約の自由は締結時のものであり、契約締結後はその内容の履行義務があります。タレント契約がどのような内容の契約か、どのような慣習があるのか知りませんが、放送局サイドが契約を解除するときは、契約した報酬金額(または違約金)を支払わなければならないでしょうし、タレント側も放送局の社長が変更することが解除の事由になるとは思えません。契約締結後に拘束が生じないとすれば社会は秩序はなくなります。契約という観念が無効になります。事情変更原則が適用される場合は、限られています。建築請負契約で第1次オイルショックの時、請負金額の変更が話し合われたことがありますが、金額変更を申し入れた建築会社は、”フジタ”などがあります。裁判に持ち込まれたケースはなかったと思いますが、値上げに応じた発注者はいました。現在、請負金額変更(値上げ)を申し入れた建築会社は経営に行き詰っています。法律論としても著しい不正の発生が必要でしょうし、経済人としても安易に変更を申し入れるべきではないでしょう。)

中島みゆきさんたちは、堀江貴文が被買収企業の役員・従業員を退職に追い込むか否かは、関心がないでしょう。インターネットで音楽が配信されると、著作権が無意味になることを恐れたのだと思います。

書籍の著作権について考えます。私が大学生の頃、トマスハーディの著作権が切れたら、ハーディの日本語訳が出版できることを楽しみに、ハーディの翻訳に執念を持っていた語学の先生がいらっしゃいました。私の生き方ではありませんが、その執念にはある種の敬意を持ちました。

ディズニーが、作品の著作権の期限が終了しそうになると、ロビー活動によって法改正を行いその延長を行ってきたことは有名です。キリスト教文化に良く見られる例です。ルール変更です。日本ジャンプスキーがルール変更で勝てなくなったのはお人好しの日本人でも覚えていると思います。アメリカでも、人類の共通財産を一企業利潤を確保させるためにずるずると独占を許すのは人類文化に対する敵対であるとの批判がなされています。

平凡社は百科事典で有名だった出版社で、私も調べものに百科事典を良く利用していました。今は、まずインターネットの検索エンジンに単語を放り込みます。いくつか組合せを変更しながら検索します。最新の情報を手に入れることができます。百科事典のように出版社や編集者の権威に頼ることはできませんが、基礎的知識と判断の訓練を身に付けていれば、書籍である百科事典よりも新しくしかも詳細な情報を入手できます。デジタルディバイドが論じられるゆえんです。ブリタニカが著作権を武器にいろいろな生き残り策を講じましたが、敗退しました。歌も恐らく著作権フリーの歌が登場すると思われます。その時、作曲家や歌手の名誉と生活はどのようになるのでしょうか。

しかし、インターネット時代にはインターネット時代の仕組みが考えられなければなりません。文字の発明、書籍の発明、近代所有権制度の確立、そして著作権制度が考えられました。レコードの発明やラジオテレビの普及で、新しい歌手の姿が出現しました。インターネット時代には、歌手はどのような待遇を受けるのでしょうか。歌手の方たちは、現在の流行歌手のあり方も一時代の姿と知らなければなりません。中島みゆきさんは、ラッダイト(工業化黎明期にあった機械破壊運動)で後世に名を残す人物ではありません。