再び住基ネット

昨日(H17.02.12)の住基ネットについての意見は、推論が少々はしょりすぎていたかもしれません。人は常日頃の持論について述べるとき、要点を八艘跳びにつないでしまいます。

個人情報の集積は、過剰な建前が発言を封ずる大衆民主主義の現代では、威嚇になります。管直人自身のの年金未納事件のように失脚の可能性が、コンプライアンシー(法令順守)の掛け声のもと、隣り合わせになっています。事後的訂正は、失脚前の役職に復帰させてくれません。コンプライアンシーは、それを声高に言い立てて、すこしお膳立てすれば敵を失脚させる有効なテクニックなります。武蔵野市の卑劣なバカ課長は、知ってか知らずか重要な役割を演じたわけです。

この威嚇が、人々を萎縮させます。だから、私が、僧は本来的に徒食する存在であり、この社会のアウトサイダー性に僧の存在する根拠がある。僧はきれい事でなく汚れた糞雑衣にならなければならないと言い続けているのです。威嚇に萎縮しないでよいのは、汚れた僧のみです。僧は失うべき名誉も何もないからこそ僧たりうるのであり、したがって、僧は、浄僧になったとき、僧でなくなるのです。

市井の人にこの威嚇を恐れるなと求めることは無理があります。だから、威嚇の武器を造ってはならないのです。個人情報を集積してはならないのです。

公務員は必ず集積された情報を利用します。個々の公務員が立派か否かという問題ではない。市民(市井の普通の人)が、道徳的に立派になるべきだとか言う建前をノー天気に言ってはなりません。民主主義も、三権分立もすべて人間の魔性を前提にしたシステムです。住基ネットのような危険なシステムを存在させてはならないのです。
(寝とぼけていたのでしょうか、文意不明な箇所が少々ありましたのですこし整えました。失礼いたしました。2月17日)