八幡神社と浄土真宗(試論)

 八幡神社は、日本で一番多い神社である。朝鮮半島からの渡来人が、福岡県の香春岳(かわらだけ)につくった神社が濫觴である。現在は、大分県宇佐神宮が元締めである。宇佐神宮は、道鏡事件の舞台である。天皇家と非常に縁が深い神社である。和気清麻呂宇佐神宮宇佐八幡宮)の神託を受けに下向した。広島に、御調八幡宮がある。神護景雲3年(769)和気清麻呂が大隈に流されたとき、姉の和気広虫法均尼)がこの地に流され宇佐八幡をまつったのがはじまりと伝えられている。(こことは関係ないが、浄聞房も備後に遠流されている、歎異抄註記。)
 平成10年(1998年度)12月18日〜19日に、浄土真宗本願寺派安芸教区広陵東組寺族部研修旅行で、備後の真宗3ヵ寺のルーツといわれる三浦半島最宝寺を訪ねた。広陵東組では、しつこくこの問題意識で研修を重ねてきた。
 備後(広島県東部)は、教西寺の親戚寺院も何ケ寺かあり、何度か備後を訪問した。とくに、八幡神社は丁寧に訪問して、その神社間のレイアウトや個別神社の現況を観察した。神社は、歴史的調査が難しい。寺院は、小規模の寺院でも住職が住んでいる。寺伝がたとえ偽造であっても存在する場合が多い。調査の手掛かりになる。神社は伝承を欠く場合がほとんどである。平田篤胤のような自由な(むしろ、「でたらめ」と表現するほうが適切である)立論は、神道に歴史的な教義と神社の伝承を欠くところにはじめて存在し得たのである。
 広島県で、八幡神社が、三次から先年公立高校校長が自殺した世羅町を通って尾道に達するルート上に、適当な間隔でロケートされている。これは、県北から瀬戸内海へ、鉄を運搬する車馬の休憩場であったのではなかろうか。神社の広場に馬を繋ぐ。神楽舞台で、人間が休憩する。備後の真宗3ヵ寺の一つである三次市の照林坊は、その戦国時代の開基時の僧が、世羅町に伝道(徘徊)していたことを伝え、現在も世羅町門徒(檀家のこと)を有している。
 広島県山県郡加計(かけ)から可部を経由して広島市に至る太田川の川岸に、川を航行する舟から神社を拝することができるように川に向けて八幡神社がレイアウトされている。航行上の目印(灯台)と航行の安全祈願の役割である。太田川は、山県郡と広島を結ぶ「たたら」の鉄を含む物産の交易路であった。
 神社には、「村の鎮守の森」と「物資交易の中継地(休憩・宿泊場所を含む)」(この機能が、神社が日本社会に根付いた一番の要因と考える)と「権力の権威付け・怨霊鎮魂」この三つの役割があったと思う。
 真宗八幡神社の関係、これは真宗の商工鉱の深い繋がりを示している。
               (平成16年(2004年)12月19日武田勝道記)
               (平成17年(2005年)6月26日誤記の訂正と若干の追記)