門主や法王を媒介させなければ宗教は成立しないか

本願寺教団で門主権は、実質的にはただ玉手箱によってのみ維持されています。しかし、本願寺教団の僧侶や門徒は、門主の玉手箱を廃止しても、浄土真宗は成り立つ(安心(信仰)は成り立つ)と考えています。

マッカーサーは、「日本人は12歳」と言いました。しかし、私は、キリスト教徒には失礼ですが、日本人は、12歳の少年でもキリスト教の教義を信じるのは相当困難なのではないでしょうか。4歳ぐらいならばやっと信じれます。

キリスト教カトリックではローマ法王は、どのような仕組みでその権力を維持しているのでしょうか。カトリックは、現在でも救済に教会や神父、ローマ法王が必要とされているのでしょうか。「司祭(司教および司祭)だけが病者の秘跡の執行者」(教皇庁教理省「病者の塗油の秘跡の執行者に関する覚え書き」2005年2月11日)であるとわざわざ表明しているところを見ると、現在でも中世とかわっていないようです。

世界でもっとも強大な利権集団であるカトリックが、中世のシステムを放棄しない姿を見ると、本願寺教団が門主の玉手箱を否定すると本願寺教団が崩壊の道を歩むことになるのかと一抹の不安を持たなくもありません。

宗教集団において、門主や法王の存在は何なのでしょうか。

浄土真宗は、法機ともに充分成熟しており、門主が僧俗の敬愛すべききずなの象徴であっても(門主を信仰の要素としなくても)、本願寺教団が真宗の教義と信仰を維持し将来に伝えていく集団として機能すると私は思います。