「説教」という言葉について

浄土真宗の説教について」というテーマで一文を書こうと思いました。しかし、「説教」という言葉が古臭いのではないかと思いYahoo!で検索してみました。

すこし驚きましたが、現在、説教という言葉は、キリスト教の専売になっているようです。

私の子どもの頃は、広島の浄土真宗の寺院の世界では、法座の講師は、説教使と呼ばれていました。在家の方々も、説教という言葉しか使っていなかったと思います。そういえば、先年岩波文庫から「エックハルト説教集」が出版されたときも、説教という言葉に違和感を覚えました。浄土真宗では、「説教」という言葉は、ニュアンスが悪いとして、死語になっていたからです。古いタイプの、話し方としては、「節談説教」(近時、芸能として見直されています)がありますが、池田勇人さんの所得倍増政策前の昭和30年代前半のお説教は、節談的話し振りがありました。

浄土真宗本願寺派西本願寺派)では、教団の公式用語では、「説教使」は、「布教使」という言葉に変えられています。「説教」の言葉がかもす中世的古臭さを、仏教サイドが持っているとき、キリスト教サイドか、「説教」のパテントを登録したみたいです。

伝道という言葉をにらんで、「説教」を「布教」という言葉に浄土真宗も変えたのかなと思います。教線拡大を使命とする言葉です。なんだか「戦線」という言葉を連想しますが、それは連想でなく、まさに戦線そのものだったのです。歴史的に見ると、キリスト教の「伝道」や「ミッション」は、有色人種をすべて白人の奴隷にしようとした植民地主義の宗教的側面です。浄土真宗も、「布教」と用語変更をせずに、「説教」のままのほうが、膨張主義の脅迫を受けずによかったのでしょうか。