二重権力構造は、権威と権力の構図とは違う

権威と権力は、截然と区別できるものではない。権威はいつでも権力に転化し、権力は継続という要素が加わると権威を帯びてくる。しかし、理念的には一応区別できる。権威は精神的なものであり、権力は物理的強制力を本質とする。天皇は、現在は象徴すなわち権威である。具体的行為は、天皇からは出てこない。

二重権力は、同質の対抗権力とは異なり、上位の権力より下位の権力が決定力を持つ構造である。三権分立のようにある意味では補完関係にあるバランス構造ではない。二重権力のもっとも悪いところは、下位の者(あるいは影の者)が責任を問われない。あるいは、戦前のように、周りのものがブロックして上位の者(お上)を守り、結局無責任体制となって、改革する手立てが失われる。

宗門(浄土真宗本願寺派)で、差別問題に取り組む基幹運動が迷走する原因は、ここにある。門主は、明らかに権威である。そして、総局(執行部)と宗会(議会)そして監正局(司法)という、権力機関がある。しかし、宗門は宗教団体である。宗教は本来的に、教義がすべてである。宗教団体である宗門の権力諸機構は下位の雑部門である。したがって、門主は、必然的に生殺与奪を握る権力を有することになる。異端に対する破門や粛清は、宗教団体に本来的にある権能である。西洋中世の魔女裁判や異端審問は、宗教の本質である。現代では、ローマ法王もそうであろうが、わが宗門の門主も、可能な限り、権力を放棄するよう努めなければならない。宗門の玉手箱は、やはり否定されなければならない。大谷光真門主は、ぜひ玉手箱を放棄していただきたい。

ご認許(私は形式的権能と思うが、宗門では実質的裁可と捉える向きもある)や玉手箱を認めて、門主の無答責主張する者は、門主を利用して権力を行使する喜悦をむさぼるものである。ながく宗務員生活を送ると自己を本願寺と一体化するのであろうか。こうして人間から遊離した基幹運動(同朋運動)になったのである。